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ギャラリー

ギャラリーでは町内の歴史や成り立ち、今の清掃工場等をご案内いたします。

目次
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茶屋坂と爺々が茶屋

町内には 江戸から目黒に入る道に爺々が茶屋があった。その坂を茶屋坂と称した。広重の浮世絵に残っている。その後目黒火薬製造所の土地になり 弾薬庫となり横穴が多数掘られた。目黒火薬製造所が昭和3年に移転したため、昭和8~10年頃造成されて今の住宅地になりました。

茶屋坂と爺々が茶屋

旧茶屋坂の途中に目黒区教育委員会の案内板がある。茶屋坂と爺々が茶屋  三田2-12~14

茶屋坂は江戸時代に、江戸から目黒に入る道の一つで、大きな松の生えた芝原の中をくねくねと下るつづら折りの坂で富士の眺めが良いところであった。
この坂上に百姓彦四郎が開いた茶屋があって、3代将軍家光や8代将軍吉宗が鷹狩りに来た都度立ち寄って休んだ。家光は彦四郎の人柄を愛し、「爺、爺」と話しかけたので、「爺々が茶屋」と呼ばれ広重の絵にも見えている。以来将軍が目黒筋へお成りの時は立ち寄って銀1枚を与えるのが例であったという。また10代家治が立ち寄った時には団子と田楽を作って差し上げたりしている。こんなことから「目黒のさんま」の話が生まれたのではないだろうか。

平成3年3月  目黒区教育委員会

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近傍の浮世絵

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歌川広重 江戸百景

目黒千代が池
場所は東京警視庁目黒分室辺りと云われている。

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歌川広重 江戸百景

目黒元不二
目切坂上(鎌倉街道)代官山付近

 

歌川広重 江戸百景

目黒太鼓橋夕日の岡
太鼓橋から雅叙園方面を望む

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歌川広重 江戸百景

目黒新富士
別所坂上 流れは三田用水

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茶屋坂の清水

如何なる干天にも湧きて止まず 清澄にして夏は冷たく冬暖かい飲用快適の此の清水は此処より北約120米茶屋坂を僅に下る所地下約7米に水源を持って居る。
巷傳に依れば3代将軍家光公以来代々の徳川将軍が鷹狩や祐天寺詣りに目黒御成りの時は目黒のさんまで有名な彦四郎茶屋又の名を爺々が茶屋で三田台から目黒川を隔てて遠く富士を望む景色を賞で乍ら滾々と湧き出る此の清水で立てた茶に喉を潤ほされるのが常であった。
幾百年の間将軍を始め此坂を通る人達に親しまれた此の清水も昭和8年分譲地々均一工事の為心無くも埋没されようとした。当時水交園管理人近藤延治郎は深く之を惜しみ夫妻相諮へて貧しき中より私財を投じ水源を石囲ひし土管とコンクリートで以て地下水の流入を防ぎ此処に導き出して清水の生命を取り留めたのであった。紀元2605年(昭和20年)東京が空襲大火災で水道断水の時 此清水は消防用水となり又炊飯用として附近の人々を救って呉れた。戦時中水交園に住み此の水の恩恵を身に泌みて味わった人達は終戦後清水の由来を始めて聞き深く近藤氏の陰徳と其の義侠心に感じ此の名水を世に顕わすと共に其の徳に報ひんと発起 廣く縁故の士の賛同援助を得て此処に碑を立て由来記す。願わくば此の清水が永久に湧き出でて人の心を潤ほさん事を

昭和21年6月15日

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茶屋坂の清水の碑に寄せて

落語で有名な「目黒のサンマ」の話のもととなったといわれている爺々が茶屋は、現在の三田二丁目に位置する茶屋坂の途中に、その由来をしめす説明板があります。
この爺々が茶屋は、江戸時代、徳川歴代の将軍、三代家光公、八代吉宗公が、鷹狩りにおなりのさい、背後にそびえる富士の絶景を楽しみながら、湧き出る清水でたてた茶で喉を潤したと云われています。中でも八代将軍吉宗公は、祐天寺詣でのおりにも利用したと伝えられています。
こうして長い間、身分の垣根を越えて皆に愛され親しまれてきた「茶屋坂の清水」も、昭和8年、分譲地の造成工事のため、埋没の危機にさらされました。
この時、この清水を惜しんだ、分譲地の一画にあった水交園の管理人夫妻が、清水の保護に努力されて「茶屋坂の清水」は守られ、次の世代へと受け継がれてきました。この後、この清水は、東京大空襲の際には、消防用水、炊事用として付近の人々の命を救ったのでした。
この碑は、戦後、「茶屋坂の清水」の由来を永く後世に伝えるため、この清水の恩恵を受けた人々により建てられました。残念ながら現在は、その清水も渇き、この碑だけが、唯一、当時を語っています。
目黒区では、この碑の中に流れる人々の心を、受け継ぐ意味から公園に移動しました。この碑の心が区民の皆様にも永く伝えられ、当時を忍ぶ資料となれば幸いです。

平成7年3月      目黒区  土木部公園緑地課

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​三田用水と新茶屋坂

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三田用水は寛文4(1664)年、飲用の上水として作られ、玉川上水から北沢で分水し、三田村を通り白金、芝へ流れていた。
享保7(1722)年この上水が廃止になった時、目黒の4か村をはじめ14か村はこれを農業用水として利用することを関東郡代に願い出で、享保10年に三田用水となった。
農耕、製粉、精米の水車などに用いられた用水も、明治以降は工場用水やビール工場の用水など、用途を変更し利用されてきたが、やがてそれも不用となり、昭和50年にその流れを完全に止め、約300年にわたる歴史の幕を閉じた。茶屋坂隧道は昭和5年に新茶屋坂通りを開通させるため、三田用水の下を開削してできた全長10mほどのコンクリート造りのトンネルで、平成15年に道路拡幅に伴い撤去された。

平成21年3月    目黒区

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目黒火薬製造所

江戸時代の幕末に設立
安政4年(1857年)幕府は軍事上の必要から三田村の新富士より一軒茶屋上、広尾水車道までの約4万坪の地域に、それまで千駄ヶ谷にあった焔哨蔵(えんしょうぐら)(火薬庫)を移設し、さらに中目黒村内の三田用水より上目黒村・中目黒村・下目黒村の田んぼへの分水口下に砲薬調合用の水車場を建てる計画を打ち出した。こうして目黒砲薬製造所がつくられ、幕府の軍事力強化に一役買ったのである。

明治期
明治政府は内乱の鎮圧と外交進出に備えて 兵器・火器の補強を図るため、新たに火薬製造所の建設場所を捜していた。そして白羽の矢が立ったのが、旧幕営砲薬製造所跡の目黒の三田村である。三田村が2度も火薬製造所に選ばれたのは、目黒川・三田用水・豊富な湧水など水利に恵まれ、茶屋坂上の高台から目黒川にかけての傾斜地が、火薬生産に必要な鉄製水車を回すのに適していたからである。
明治18年創業開始。製造した火薬は海軍や鉱山用に使われて、生産もしだいに増加した。日清戦争が始まると軍用火薬の需要が増大したため、目黒火薬製造所は隣接の土地を買収した。日露戦争が勃発し、火薬製造は再びブームを迎え、夜を徹して増産につぐ増産が行なわれた。
明治時代の二大戦争によって成長した目黒火薬製造所は明治44年 それまでの水力および蒸気による動力を、渋谷発電所から供給される電力に切り換えるなどの近代化を行った。

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図は 一万分一地形図東京近傍十三号(大正5年大日本帝国陸地測量部発行)

しかし 昭和に入って、目黒に人家が増え、商店・工場も建てられると、火薬製造が危険ということで、昭和3年、幕営時代から70余年、三田にあった火薬製造所もついに群馬県岩鼻村へ移転することになる。目黒の工業化の元祖ともいうべき製造所が他の工場などの進出によって追い出されたわけである。
火薬製造所跡地の大部分は海軍技術研究所を経て、現在防衛省防衛研究所となっている。

出処(目黒区ホームページー歴史を訪ねて 目黒火薬製造所)

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東京工業試験所目黒分室

目黒清掃工場は東京工業試験所目黒分室の跡地に建設されました。
東京工業試験所(国立の研究施設)の歴史と昭和53年ごろの目黒分室の映画がありましたのでご覧ください。
明治33年(1900年) 越中島に発足(漆、油、染料、陶磁器、レンガ、セメント等の研究)
大正7年(1918年)  目黒分室誕生(アンモニアの国産化のために臨時窒素研究所が発足)
大正12年(1923年) 越中島より初台に移転(化学工業製品の国産化の研究)
昭和53年(1979年) 科学技術研究所と名称を変更して筑波学園都市へ移転しました。
初台の跡地は新国立劇場となる

映画:現代の夢のゆりかご 化学を育んだ東京工業試験所 21分12秒
前半の7分は目黒分室です。懐かしい目黒川の映像、水素タンクやツタの絡まった建物に昔を彷彿とさせられました。

映画をご覧ください。21分12秒 東京工業試験所映画

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目黒清掃工場

​目黒清掃工場建設の沿革と経緯

東京都目黒清掃工場は自区内処理の原則に基づき、昭和48年「東京工業試験所目黒分室」跡地に東京都が、清掃工場を建設する計画を発表して以来、十有余年を経て昭和60年11月に都市計画決定を受け、昭和61年7月に土壌処理及び建物撤去工事を行い、昭和63年5月、本体建設工事に着手し、2年10ケ月の工期をかけて、平成3年3月に竣工しました。
竣工までの20年近くの歳月は、決して平坦なものではなく、この間、地元住民からは清掃工場建設に反対する「請願」や「陳情」が幾度か出され、また、区議会においては、清掃工場建設に係わる「特別委員会」が設置され、幾多の審議や視察が熱心におこなわれました。
このような経過の中で、地元住民の皆様方との日夜を分たぬ熱心な協議が重ねられ、清掃工場建設についてのご理解とご協力を得て、都市型の最新鋭工場として、竣工に至ったものであります。
平成4年3月  東京都清掃局工場管理部
(東京都目黒清掃工場建設の沿革と経緯の冒頭部分です)

概要
敷地面積:約29,000平方メートル(緩衝緑地を含む)
炉形式:日本鋼管フェルトン式(全連続燃焼式火格子焼却炉)
規模:600トン/日   (300トン×2炉)
煙突の高さ:150メートル
建物高さ:27、6メートル
余熱利用:発電出力:11,000KW 給熱:田道ふれあい館、区民センター、田道小学校

目黒清掃工場建替計画が示されました。

(2014/6/25目黒区ホームページより)

敷地面積:約29,000平方メートル(緩衝緑地を含む)
炉形式:全連続燃焼式火格子焼却炉
規模:600トン/日   (300トン×2炉)
煙突の高さ:150メートル
建物高さ:24メートル
平成29年解体工事開始
平成31年建設工事開始
平成34年度完成予定
目黒清掃工場建替計画PDF

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